5月31日日曜日に京都五条にある複合ショップ、五条モールの中のギャラリースペース8でsokuatsu(足圧)です。12時から19時までです。
静かな街並みのしっとりした町屋でお待ちしています。
ステキな古本屋さんや雑貨屋さん、Barもある 建物です。
* * *
その日、倉庫のような空間のカウンターでチャイを飲みながら、会って、二回目にお話しする人に
「あなたは、よわいよ。
人はかわらないから、自分がかわらないと・・・
よわさを埋め合うのじゃなくて、補い合うことをしないとね。」
と言われました。
そうか、わたしは、どうしようもなく、よわいのだな・・・
わたしとだれか
わたしとわたしの目の前の出来事の数々、
苦しみや悲しみと感じることは、自分でつくりだしている気がしていたけれど、
それはみんな わたしのよわさが つくりだしているのだなあ、
とその言葉をうけとって、なんだかすがすがしい気持ちになりました。
わたしはよわい
と自分にはっきり言うことで、明るい心もちになりました。
また別の日に 初めて会ったひとにわたしの今までのことを話していて、
あなたのその子どものころから握りしめている「さみしい」という気持ちを
とにかく見つめ続けてください。
そうすれば、あなたはかわることができて、さみしいからではなくて、ただ好きだから好き
と人に求めなくてもよくなります、
と言われました。
子どものころからの自分をおもうと、いつもいつもさみしくて、そとにばかり満たしてもらうことを求めていたなあ、
そして、自分のことが全然好きじゃなかったなあ。
そんなにずっと「さみしい気もち」をにぎりしめて今まで、過ごしてきたなんて・・・
そして不思議なことに、自分の中にそんなにつよくにぎりしめていたものがあると意識すると、
どんどん身体と気持ちがゆるんでくるようでした。
そのあと川べりの珈琲店で、あおい花もようのカップの浅いり豆の珈琲をひとりでのんでいたら、イスに座っているのに、身体がうかんでいるように感じました。
それから、わたしはこんなにしあわせなのに、どうして、思いどおりにならないことを一生懸命悲しんでいたんだろう。もうじゅうぶん、いろんなよいものをうけとっているのに・・・というおもいでいっぱいになりました。
またある日、
静かなピアノの曲が流れるスタジオでのコンテンポラリーダンスのワークショップで、
講師の方が、
肋骨を意識してみてください。肋骨は中にある内臓をまるで抱きしめているようでしょう。
と言われました。
その言葉をきいて、
ひとは生まれながらにもう抱きしめられているんだ。もう愛されているんだな。
だから、愛してほしいと外に求めなくても大丈夫なんだな。
愛されたいわたしじゃなくて
愛したいわたしの音を 日々奏で続けたらいいんだ。
何年したか、何年するかじゃなくて、今日奏でられた。明日も奏でよう。それだけなんです
と言ってたオルガン奏者の言葉のように・・・
波うつことの多く、いくつもの道しるべにたすけられて、あるき続ける日々です。
* * *
写真は五条モールのオセロさん。