2015年9月13日日曜日

sokuatsu(足圧)小休止 そして白い魔術と ただのわたし


sokuatu(足圧)講座に通い、周りの人たちに喜んでもらえて、うれしいなあとおもっていたときから、やがて知らない場所で、知らない人たちがお客さまになってくださって、sokuatu(足圧)をさせていただけるようになりました。

去年の初夏に、はじめてご縁をいたただいたイベントは、ずっと好きで通っていた珈琲店の店主さんが紹介してくださいました。

それから、毎月どこかによんでいただけるしあわせな一年と少しの日々でした。

この夏からわたしのまわりで変化のときが訪れて
夏がすぎゆく今またあたらしいご縁をいただいて、sokuatu(足圧)とはちがう世界に身を置くことになり、イベント参加は小休止となります。

でもどこでなにをしていても、

セラピスト
エッセイスト
えほんコーディネーター
のわたし・・・

でもわたしがいつもなりたいなあとおもっているのは、

白魔術師です。

アーシュラ・K・ル=グウィン作の「ゲド戦記」シリーズを読んだとき、いわゆる魔法使いの存在の他に、村には小さな魔術師がいて、家畜や村人のけがや病気の世話をしていた様子が印象的でした。

わたしは、とくに、声がきこえるとか、オーラが見えるとか、予知ができるとかそういう類のことは
一切ないのですが、子どものころから、人の視線を感じるということが、不思議でした。

そしていつか、本の中にでてきた村の魔術師みたいになれるといいな
とsokuatu(足圧)をしながら、おもうようになりました。

あるとき、Barのカウンターで、白魔術師になりたいとはなしたら、
となりに居合わせたかわいらしい女の人が、
白魔術師というと、ゲームの中にでてくるイメージと教えてくれました。

たたかうときに、白魔術師は直接的な力にならないので、一人でいても意味がないのだけれど、
人の中にいると、他の人を癒す力があり、とても意味がでてくるのだそうです。

そのお話をきいて、遠くてもわたしの歩いてゆく道をおしえてもらったようで、
じんわりうれしくなりました。

いつか、服部みれいさんが仕事について、

好きなことを職業にするッみたいなノリは、根本的にちがうのかなと思っているんです。
そういう方向じゃなくて、「ただ、わたし自身である状態」に人間がなった瞬間というのは、
受容の幅と深度がすごいことになっていて、何でもありがたいと思える、そういう境地になるのかな
と思っています。

とおしゃっていました。
ちょっとむずかしいのですが、わたしなりにうけとると、
何をするかより
どうあるか
そしてどれだけそのままの自分でいられるか
ということのような気がしています。

sokuatu(足圧)がはこんでくれた空間、ひと、時間との出会いのひとつひとつが
わたし自身になるためのgiftにおもえ、感謝の気持ちでいっぱいです。

ありがとうございます。

写真は看板もおもいつかない、はじめてのイベントでsokuatu(足圧)させてもらった日のわたしです。

またsokuatu(足圧)でお会いできる日を楽しみに・・・







2015年9月2日水曜日

9月4日 green stone さんで 足圧 そして 横断歩道にうずくまるわたしと いつかなにかにかわる問題

 
 
 9月4日金曜日 交野(かたの)のgreen stone さんで 10時から15時まで足圧させていただきます。
 
クレイパックのかやさんとご一緒させてもらいます。はじめましてのベイビーと久しぶりにお会いする店主さん。とても楽しみです。
 
 
     *     *     *
 
京都の大学の街あたりの路面電車と道路が交差する道沿いの古いビルの二階と三階にそのお店があります。
 
三階は珈琲のお店です。静かというよりもう少しはっきりした音でピアノ曲が流れていました。
窓際のカウンターからすぐ前の道路の横断歩道が見えて、運ばれてきた珈琲には、真ん前の電信柱がうつっています。
 
外の車や信号機の合図の音、お店のピアノ曲がまざって、でもなぜか心が静まる空間です。
周りが静かだから自分の中が静かというわけじゃないんだな、とちょっと不思議でした。
坂本龍一さんの曲をききながら、ぼんやり珈琲をのんでいたら、自分で自分の中を眺めているような気持ちになり、涙がでてきて、なにに泣いているのかよくわからないな、と感じました。
 
それから、予約していた二階の美容室におりました。
髪を切ってくださるのは、やわらかい雰囲気の女の人でした。お店の本棚に並んでいる本から、少し前に京都であったっ作家さんの講演会の話題になり、
えー、わたしもいってましたよ。ああ、あの質問されたのがそうだったんですね。
と、話したりしました。
 
そして、自分の中のかなしみとどう向き合うかという話になりました。
 
かなしみを酒の肴にしてBarで飲むのもオツなものじゃないですか。
かなしい時にかなしい曲とかきくと、自分の中に元気いっぱいの時よりぐっとはいってきませんか。
 
と話されてからその人は、一瞬髪を切る手を休めて、窓から見える横断歩道をさして
 
あの横断歩道の真ん中にかなしんでるわたしが立っているとするでしょう。
そのわたしをここの二階の窓からわたしが見てるという
感じです。
 
とおっしゃいました。
そのときその横断歩道に立ちつくすわたしが あざやかにわたしの中にうかびました。
 
いつまでもかなしんでいる自分はだめだ、ポジティブにならないと・・・
とおもってよけいにとらわれてしまうことがしばしばでした。
 
いつか読んだ石井ゆかりさんの本のなかに
元気でありながら心の中には大切なかなしみを卵のように温め続けることができる。
というような文章がありました。
 
それから、かなしみでいっぱいの自分になったとき、
横断歩道にうずくまっている自分を、二階の窓から見ている自分
という光景をおもい描くようになりました。
 
 
原題は”Wild"という映画「わたしに会うまでの1600キロ」をみました。
傷ついた一人の女の人が三か月かけて自然の中を歩き続けるというストーリーでした。
ヒロインが旅の終盤で、人に言えない問題をかかえているという男の子に会ったときの
 
じゃあ、言わなくていいわ。
問題はいつかなにか他のものに変わるのよ。
 
というセリフに胸がいっぱいになりました。
 
それは、いつかなのです。
いつなのかはわからないのです。
 
そして、なにか他のものなのです。
自分にとってよいかどうか、
もしかしたらそういうジャッジをこえた天からのギフトのようなものかもしれません。
 
 
写真は映画のチケットとはじめてエンジェルカードをひいたときの寺門さんの描く天使のカードです。