2015年8月11日火曜日

8月16日天満ナチュラルマーケット そしてからだにうけとるよろこびと 子どものこころ

8月16日日曜日は天満ナチュラルマーケットです。
11時から17時まで sokuathu(足圧)します。
気軽に受けていただける、15分千円から です。

おいしいものや楽しいことがたくさんの空間に 遊びにいらしてくださいね。

オラクルカードのエンジェルカードも持っていきます。
ぜひ天使からのメッセージを うけとってくださいね。


     *     *     *

 わたしは、なにか見えないものが見えるとかそういう体質?では全然ないのですが、
印象に残る不思議な体験が二つあります。

 ひとつは、娘がまだ小さかったころ古い洋裁学校の原っぱにあるカフェに二人で行ったときでした。カフェが始まる時間を原っぱで娘と待ちながら、しゃがんで地面の草をぼんやりながめていました。娘はいろんな葉っぱをさがして、
こっちにこんな色の葉っぱがあるよ、
とむこうで言いました。そのとき突然からだが 圧倒的な幸福感みたいなものに包まれました。

みたいなもの、というのは、それまで経験したことのないような、直接からだに感じる幸福感としか言いようのない感覚だったからです。
わたしはびっくりして、わけもわからずそのわきあがってからだを満たしているものに身をまかせました。そしてその感じはふいにやってきたようにふいにすうっとひいていき、普段のわたしにもどりました。そのあとなにか自分が生まれ変わった、とかそういうこともなく、なんだったのかな・・・とおもっておしまいでした。

 もう一つは、京都のスターバックスで、ひとりでぼんやりしているときに、知らない英語の歌がながれました。それまでも音楽がかかっていて、その続きの一曲で、女の人が歌っているようでしたが、英語の歌詞はわかりませんでした。
その声をきいていたら、突然からだのおくから、ものすごい強さの快感のようなエネルギーがわきあがってきました。しびれるような感覚で、エクスタシーと呼ばれるものに近かったかもしれません。わたしはどうすることもできないでただじっとイスに座っていました。やがてその知らない歌がおわると、波がひくようにその感覚はわたしのからだから消えていきました。

そのときもただそういう時間があって、あとにはいつものわたしがいる、という風でした。

 その出来事からもう何年もたちますが、ときどき、あれはなんだったのかな、とおもうことがありました。
 少し前に あまり話さないその二つのことを聞いてもらう時間がありました。
どうしてそんなことがおこったのか、とても不思議だと言ったら、聞いてくれていたひとが自分のことを話してくれました。

おなじかどうかわからないけど、ある時期にね、すごくいろんなことを感じやすくなっているときがあって、出掛けていて、今から家に帰って晩ごはんを食べるんだと思ったら、うれしくて泣いてしまうような自分だった。それは、子どものようなこころでいたってことじゃないかな。
子どものようなこころがどんなものかって言われるとうまく言えないけど。
手放すのが大切っていうけど、そればっかりではいられないし、でもずっとぎゅっと抱えたままもしんどいし、その両方の繰り返しじゃないかな。
 ぎゅっとしてるときは、いい歌をきいて、あたまでこれはいい歌だなって認識してそれから感動するんだけど、手放してるときは、歌をきいてそれがそのまま自分に響いて反応するかんじゃないかな・・・ それが子どものこころでいるっていうことなのかなって。

その話をしてもらって、わたしは長い間の「なぜ」がとけて流れていくような、ほっとした気もちになって、その二つの時間をうけとりなおしたように感じました。

そしていつもギフトのときはふいにやってくるのだなと、その時間をうけとることができたしあわせに
むねがいっぱいになった夜でした。

2015年8月2日日曜日

8月4日火曜日 チエリヤさんでsokustsu(足圧) そして きれいなものを持っているわたしをみている目は誰の目?

 

 8月4日火曜日は、京都三条の仁王門通りのニューオーモンのチエリヤさんで
お灸セラピストのよだれちゃんと、足圧させていただきます。

10時から18時(受付)
15分千円から
畳の二階でゆったりと受けていただけます。
チエリヤさんはバインミーやおばんざいがおいしいアジアンなお店です。
わたしも楽しみです。

     *     *     *

 ときおり近所の フェアトレードの雑貨と洋服のお店番をさせてもらうことがあります。
ある日にぎやかな三人の女の人がいらして、店内を見てまわられるうちに、その中のおひとりの方の言葉が わたしの耳にささりました。

その方は、いろんなものを手にとるたびに、
これはおしゃれだけど、わたしが持つとだめよね、
これ、好きだけど、わたしはこんなの似合わないわ・・・

というようなことを言い続けられるので、
どうしてそんな風に思われるんですか?
とお聞きしたら、その方の妹さんに、今までずっと、
お姉ちゃんのセンスはひどい、ダメだ
とあんまり言われているから
というお答えでした。

わたしも10代の間、母に
あんたのおしりは大きくてぶかかっこうだから、
それがでる服はみっともない
と言われて、ずっとぶかぶかした服を着ていました。

ところが、ある日クラスの女の子にふいに、
あなたのお尻の形、いいよね、
と言ってもらってびっくりしました。
その後服を売る仕事をしましたが、やはり、母の言うことと、まわりの人が言うことは
全然違いました。

その話をその方にしたら、
きれいなプリントの布の手提げを
じゃあ、わたしが、こういうおしゃれなもの持ってても大丈夫ですか?
と言われたので、
全然大丈夫です!
と言うと、
その方は嬉しそうにその手提げを買っていかれました。

わたしたちは、自分でない誰かの目で見た自分を
簡単に自分自身だということにしてしまいます。

そしてなぜかそれがネガティブであるほうが、
身にまといやすいようなのです。

どんなに近しい人であっても
その人から見える自分は、その人の目にうつっている自分であって
リアルなわたしそのものではありません。

そんなことを、そのお客さまから 教えていただいた日だったな・・・
と 思いました。


写真は、寺門孝之さんの描く天使がすてきなオラクルカードの
Angel Card です。


beyerでの 詩のワークショップ


ONSA展のイベントとして beyerさんで 西尾勝彦さんの 詩のワークショップがあり、参加することができました。

詩というものを 書いたことがなく、「詩的な時間の過ごし方」という宿題も
詩ではなく、文章で持っていきました。

西尾さんに 添削(という言葉を使うのはひさしぶり・・・)していただいて、なんとか詩のようなものができ、「詩のうまれるところ」というタイトルのすてきな小冊子になって、わたしのところにやってきてくれました。

9編の詩の中にわたしの「なにもない放課後」 「カップのなか」の二編も入れてもらっています。


なにもない放課後

高校生になったら
あたらしい友だちと
あたらしい毎日をおくるのかな
ぼんやりそうおもってた

なってみたら
そんなふうではなくて
たいがいひまで
することもとくにおもいつかなかった

しかたないから
学校から帰ったら
雨じゃない日は 自転車にのった
知らない道の ふつうの家の窓や庭の花を
見ながらはしった

土手をはしっていたある夕方
ふいに
きれいなもの
汚れたもの
こわい人
すごい人
ふつうの人
みんなこの世界に同時に在るんだな
その人が見てる世界
いくつものその人だけの世界
でも同じひとつの世界なんだ
とおもった

そのときの ありふれたみちばたの草と
土ぼこりのまう道は
一枚の写真みたいに
わたしのなかに 今も残っている



カップのなか

はらっぱのカフェのテーブルの上
ちいさなアリが横切るのをながめる
そのうち男の人が小屋から出てきて
そっけなく珈琲をわたしの前におく

ごつごつしたカップのなかを
のぞきこむ
まるくて黒い鏡のように
葉っぱがうつっている
それは
こことはちがう世界への入り口