2015年9月13日日曜日

sokuatsu(足圧)小休止 そして白い魔術と ただのわたし


sokuatu(足圧)講座に通い、周りの人たちに喜んでもらえて、うれしいなあとおもっていたときから、やがて知らない場所で、知らない人たちがお客さまになってくださって、sokuatu(足圧)をさせていただけるようになりました。

去年の初夏に、はじめてご縁をいたただいたイベントは、ずっと好きで通っていた珈琲店の店主さんが紹介してくださいました。

それから、毎月どこかによんでいただけるしあわせな一年と少しの日々でした。

この夏からわたしのまわりで変化のときが訪れて
夏がすぎゆく今またあたらしいご縁をいただいて、sokuatu(足圧)とはちがう世界に身を置くことになり、イベント参加は小休止となります。

でもどこでなにをしていても、

セラピスト
エッセイスト
えほんコーディネーター
のわたし・・・

でもわたしがいつもなりたいなあとおもっているのは、

白魔術師です。

アーシュラ・K・ル=グウィン作の「ゲド戦記」シリーズを読んだとき、いわゆる魔法使いの存在の他に、村には小さな魔術師がいて、家畜や村人のけがや病気の世話をしていた様子が印象的でした。

わたしは、とくに、声がきこえるとか、オーラが見えるとか、予知ができるとかそういう類のことは
一切ないのですが、子どものころから、人の視線を感じるということが、不思議でした。

そしていつか、本の中にでてきた村の魔術師みたいになれるといいな
とsokuatu(足圧)をしながら、おもうようになりました。

あるとき、Barのカウンターで、白魔術師になりたいとはなしたら、
となりに居合わせたかわいらしい女の人が、
白魔術師というと、ゲームの中にでてくるイメージと教えてくれました。

たたかうときに、白魔術師は直接的な力にならないので、一人でいても意味がないのだけれど、
人の中にいると、他の人を癒す力があり、とても意味がでてくるのだそうです。

そのお話をきいて、遠くてもわたしの歩いてゆく道をおしえてもらったようで、
じんわりうれしくなりました。

いつか、服部みれいさんが仕事について、

好きなことを職業にするッみたいなノリは、根本的にちがうのかなと思っているんです。
そういう方向じゃなくて、「ただ、わたし自身である状態」に人間がなった瞬間というのは、
受容の幅と深度がすごいことになっていて、何でもありがたいと思える、そういう境地になるのかな
と思っています。

とおしゃっていました。
ちょっとむずかしいのですが、わたしなりにうけとると、
何をするかより
どうあるか
そしてどれだけそのままの自分でいられるか
ということのような気がしています。

sokuatu(足圧)がはこんでくれた空間、ひと、時間との出会いのひとつひとつが
わたし自身になるためのgiftにおもえ、感謝の気持ちでいっぱいです。

ありがとうございます。

写真は看板もおもいつかない、はじめてのイベントでsokuatu(足圧)させてもらった日のわたしです。

またsokuatu(足圧)でお会いできる日を楽しみに・・・







2015年9月2日水曜日

9月4日 green stone さんで 足圧 そして 横断歩道にうずくまるわたしと いつかなにかにかわる問題

 
 
 9月4日金曜日 交野(かたの)のgreen stone さんで 10時から15時まで足圧させていただきます。
 
クレイパックのかやさんとご一緒させてもらいます。はじめましてのベイビーと久しぶりにお会いする店主さん。とても楽しみです。
 
 
     *     *     *
 
京都の大学の街あたりの路面電車と道路が交差する道沿いの古いビルの二階と三階にそのお店があります。
 
三階は珈琲のお店です。静かというよりもう少しはっきりした音でピアノ曲が流れていました。
窓際のカウンターからすぐ前の道路の横断歩道が見えて、運ばれてきた珈琲には、真ん前の電信柱がうつっています。
 
外の車や信号機の合図の音、お店のピアノ曲がまざって、でもなぜか心が静まる空間です。
周りが静かだから自分の中が静かというわけじゃないんだな、とちょっと不思議でした。
坂本龍一さんの曲をききながら、ぼんやり珈琲をのんでいたら、自分で自分の中を眺めているような気持ちになり、涙がでてきて、なにに泣いているのかよくわからないな、と感じました。
 
それから、予約していた二階の美容室におりました。
髪を切ってくださるのは、やわらかい雰囲気の女の人でした。お店の本棚に並んでいる本から、少し前に京都であったっ作家さんの講演会の話題になり、
えー、わたしもいってましたよ。ああ、あの質問されたのがそうだったんですね。
と、話したりしました。
 
そして、自分の中のかなしみとどう向き合うかという話になりました。
 
かなしみを酒の肴にしてBarで飲むのもオツなものじゃないですか。
かなしい時にかなしい曲とかきくと、自分の中に元気いっぱいの時よりぐっとはいってきませんか。
 
と話されてからその人は、一瞬髪を切る手を休めて、窓から見える横断歩道をさして
 
あの横断歩道の真ん中にかなしんでるわたしが立っているとするでしょう。
そのわたしをここの二階の窓からわたしが見てるという
感じです。
 
とおっしゃいました。
そのときその横断歩道に立ちつくすわたしが あざやかにわたしの中にうかびました。
 
いつまでもかなしんでいる自分はだめだ、ポジティブにならないと・・・
とおもってよけいにとらわれてしまうことがしばしばでした。
 
いつか読んだ石井ゆかりさんの本のなかに
元気でありながら心の中には大切なかなしみを卵のように温め続けることができる。
というような文章がありました。
 
それから、かなしみでいっぱいの自分になったとき、
横断歩道にうずくまっている自分を、二階の窓から見ている自分
という光景をおもい描くようになりました。
 
 
原題は”Wild"という映画「わたしに会うまでの1600キロ」をみました。
傷ついた一人の女の人が三か月かけて自然の中を歩き続けるというストーリーでした。
ヒロインが旅の終盤で、人に言えない問題をかかえているという男の子に会ったときの
 
じゃあ、言わなくていいわ。
問題はいつかなにか他のものに変わるのよ。
 
というセリフに胸がいっぱいになりました。
 
それは、いつかなのです。
いつなのかはわからないのです。
 
そして、なにか他のものなのです。
自分にとってよいかどうか、
もしかしたらそういうジャッジをこえた天からのギフトのようなものかもしれません。
 
 
写真は映画のチケットとはじめてエンジェルカードをひいたときの寺門さんの描く天使のカードです。


2015年8月11日火曜日

8月16日天満ナチュラルマーケット そしてからだにうけとるよろこびと 子どものこころ

8月16日日曜日は天満ナチュラルマーケットです。
11時から17時まで sokuathu(足圧)します。
気軽に受けていただける、15分千円から です。

おいしいものや楽しいことがたくさんの空間に 遊びにいらしてくださいね。

オラクルカードのエンジェルカードも持っていきます。
ぜひ天使からのメッセージを うけとってくださいね。


     *     *     *

 わたしは、なにか見えないものが見えるとかそういう体質?では全然ないのですが、
印象に残る不思議な体験が二つあります。

 ひとつは、娘がまだ小さかったころ古い洋裁学校の原っぱにあるカフェに二人で行ったときでした。カフェが始まる時間を原っぱで娘と待ちながら、しゃがんで地面の草をぼんやりながめていました。娘はいろんな葉っぱをさがして、
こっちにこんな色の葉っぱがあるよ、
とむこうで言いました。そのとき突然からだが 圧倒的な幸福感みたいなものに包まれました。

みたいなもの、というのは、それまで経験したことのないような、直接からだに感じる幸福感としか言いようのない感覚だったからです。
わたしはびっくりして、わけもわからずそのわきあがってからだを満たしているものに身をまかせました。そしてその感じはふいにやってきたようにふいにすうっとひいていき、普段のわたしにもどりました。そのあとなにか自分が生まれ変わった、とかそういうこともなく、なんだったのかな・・・とおもっておしまいでした。

 もう一つは、京都のスターバックスで、ひとりでぼんやりしているときに、知らない英語の歌がながれました。それまでも音楽がかかっていて、その続きの一曲で、女の人が歌っているようでしたが、英語の歌詞はわかりませんでした。
その声をきいていたら、突然からだのおくから、ものすごい強さの快感のようなエネルギーがわきあがってきました。しびれるような感覚で、エクスタシーと呼ばれるものに近かったかもしれません。わたしはどうすることもできないでただじっとイスに座っていました。やがてその知らない歌がおわると、波がひくようにその感覚はわたしのからだから消えていきました。

そのときもただそういう時間があって、あとにはいつものわたしがいる、という風でした。

 その出来事からもう何年もたちますが、ときどき、あれはなんだったのかな、とおもうことがありました。
 少し前に あまり話さないその二つのことを聞いてもらう時間がありました。
どうしてそんなことがおこったのか、とても不思議だと言ったら、聞いてくれていたひとが自分のことを話してくれました。

おなじかどうかわからないけど、ある時期にね、すごくいろんなことを感じやすくなっているときがあって、出掛けていて、今から家に帰って晩ごはんを食べるんだと思ったら、うれしくて泣いてしまうような自分だった。それは、子どものようなこころでいたってことじゃないかな。
子どものようなこころがどんなものかって言われるとうまく言えないけど。
手放すのが大切っていうけど、そればっかりではいられないし、でもずっとぎゅっと抱えたままもしんどいし、その両方の繰り返しじゃないかな。
 ぎゅっとしてるときは、いい歌をきいて、あたまでこれはいい歌だなって認識してそれから感動するんだけど、手放してるときは、歌をきいてそれがそのまま自分に響いて反応するかんじゃないかな・・・ それが子どものこころでいるっていうことなのかなって。

その話をしてもらって、わたしは長い間の「なぜ」がとけて流れていくような、ほっとした気もちになって、その二つの時間をうけとりなおしたように感じました。

そしていつもギフトのときはふいにやってくるのだなと、その時間をうけとることができたしあわせに
むねがいっぱいになった夜でした。

2015年8月2日日曜日

8月4日火曜日 チエリヤさんでsokustsu(足圧) そして きれいなものを持っているわたしをみている目は誰の目?

 

 8月4日火曜日は、京都三条の仁王門通りのニューオーモンのチエリヤさんで
お灸セラピストのよだれちゃんと、足圧させていただきます。

10時から18時(受付)
15分千円から
畳の二階でゆったりと受けていただけます。
チエリヤさんはバインミーやおばんざいがおいしいアジアンなお店です。
わたしも楽しみです。

     *     *     *

 ときおり近所の フェアトレードの雑貨と洋服のお店番をさせてもらうことがあります。
ある日にぎやかな三人の女の人がいらして、店内を見てまわられるうちに、その中のおひとりの方の言葉が わたしの耳にささりました。

その方は、いろんなものを手にとるたびに、
これはおしゃれだけど、わたしが持つとだめよね、
これ、好きだけど、わたしはこんなの似合わないわ・・・

というようなことを言い続けられるので、
どうしてそんな風に思われるんですか?
とお聞きしたら、その方の妹さんに、今までずっと、
お姉ちゃんのセンスはひどい、ダメだ
とあんまり言われているから
というお答えでした。

わたしも10代の間、母に
あんたのおしりは大きくてぶかかっこうだから、
それがでる服はみっともない
と言われて、ずっとぶかぶかした服を着ていました。

ところが、ある日クラスの女の子にふいに、
あなたのお尻の形、いいよね、
と言ってもらってびっくりしました。
その後服を売る仕事をしましたが、やはり、母の言うことと、まわりの人が言うことは
全然違いました。

その話をその方にしたら、
きれいなプリントの布の手提げを
じゃあ、わたしが、こういうおしゃれなもの持ってても大丈夫ですか?
と言われたので、
全然大丈夫です!
と言うと、
その方は嬉しそうにその手提げを買っていかれました。

わたしたちは、自分でない誰かの目で見た自分を
簡単に自分自身だということにしてしまいます。

そしてなぜかそれがネガティブであるほうが、
身にまといやすいようなのです。

どんなに近しい人であっても
その人から見える自分は、その人の目にうつっている自分であって
リアルなわたしそのものではありません。

そんなことを、そのお客さまから 教えていただいた日だったな・・・
と 思いました。


写真は、寺門孝之さんの描く天使がすてきなオラクルカードの
Angel Card です。


beyerでの 詩のワークショップ


ONSA展のイベントとして beyerさんで 西尾勝彦さんの 詩のワークショップがあり、参加することができました。

詩というものを 書いたことがなく、「詩的な時間の過ごし方」という宿題も
詩ではなく、文章で持っていきました。

西尾さんに 添削(という言葉を使うのはひさしぶり・・・)していただいて、なんとか詩のようなものができ、「詩のうまれるところ」というタイトルのすてきな小冊子になって、わたしのところにやってきてくれました。

9編の詩の中にわたしの「なにもない放課後」 「カップのなか」の二編も入れてもらっています。


なにもない放課後

高校生になったら
あたらしい友だちと
あたらしい毎日をおくるのかな
ぼんやりそうおもってた

なってみたら
そんなふうではなくて
たいがいひまで
することもとくにおもいつかなかった

しかたないから
学校から帰ったら
雨じゃない日は 自転車にのった
知らない道の ふつうの家の窓や庭の花を
見ながらはしった

土手をはしっていたある夕方
ふいに
きれいなもの
汚れたもの
こわい人
すごい人
ふつうの人
みんなこの世界に同時に在るんだな
その人が見てる世界
いくつものその人だけの世界
でも同じひとつの世界なんだ
とおもった

そのときの ありふれたみちばたの草と
土ぼこりのまう道は
一枚の写真みたいに
わたしのなかに 今も残っている



カップのなか

はらっぱのカフェのテーブルの上
ちいさなアリが横切るのをながめる
そのうち男の人が小屋から出てきて
そっけなく珈琲をわたしの前におく

ごつごつしたカップのなかを
のぞきこむ
まるくて黒い鏡のように
葉っぱがうつっている
それは
こことはちがう世界への入り口


 

2015年6月20日土曜日

6月21日 日曜日 天満ナチュラルマーケット そして通り抜ける とても素敵なあさあけどき

 
明日6月21日日曜日は、天満ナチュラルマーケットにsokuatu(足圧)参加させていただきます。
初めて参加の去年の6月のナチュラルマーケットでは、どきどきしてそこにいるのが精いっぱいな風でした。
 たくさんのよいことを経験させてもらったナチュラルマーケットに
感謝の気持ちをこめて受けてくださる方に小さなお福分けをお渡しします。
小さくお楽しみに。

    *    *    *

 やわらかな女性ヴォーカルのカヴァーアルバムの中の曲をきいていました。

とても素敵な昧爽(あさあけ)どきを 通り抜けてたら・・・

というところで、わたしも忘れない夜があける時の空があったとおもいました。

 夕暮れどきに帰る前にもう一度下宿のアパートのドアをノックしたら、その人が顔をだして、
「ああ、あっちゃんをこのへんで見たってきいたから、いいひんか探しててん。よかった。入り。」
と言われて、部屋に入りました。
 あっちゃんとよばれていた10代の終わりの夏のはじめでした。
 学校のイベントで話すようになったロングコートの似合うひくい声が心地よい人でした。

 そのころ、わたしは、自分のことが全然好きではありませんでした。セクシーさのかけらもない顔も、小さい胸も、他のこともコンプレックスだらけでした。
でもわたしはこんなだけど、女の人も男の人もすてきな人はいっぱいいてうれしいな、と思っていました。そのすてきな人たちがみんな好きでした。

 その人はひときわすてきにおもえました。
その人が、わたしに声をかけてくれたことがうれしくて、もう一度だけ会いに行きたくて、でも帰ろうかなあと思いつつしたノックでした。

 部屋に座ったらラジオから知らない歌がながれていました。
夜に男のひとの部屋にいるのは初めてでした。

 明け方、その部屋の小さなベッドからおきて、部屋の外にあるトイレに行きました。
そのとき見上げたら、むこうのほうにほんのりあかるみが見える夜明けの空でした。
大人になって初めて見るような空でした。

その空をみたわたしは、その前のわたしとはちがうようにおもえました。

 ただしくも、やさしくも、つよくもなく
あふれるエネルギーをとんちんかんに使ってばかりで
自分を好きになれなくて、
誰かに見つけてもらって、好きになれる自分を見つけたかったわたし。
そのときの空を見たこと、
それはふたりのおもいでにはならずに、わたしだけのおもいでですが、
わたしの中で、きえない空になりました。

2015年6月11日木曜日

6月17日 いんたばる晩ごはんライブ そして 破れた恋と 肌の下にあるもの・・・


6月17日水曜日の夜はいつものsokuatsu(足圧)じゃなく、
勾玉堂さんの口もおなかもあたまもうれしいお料理の、
いんたあばるの晩ごはんライブで、
えほんのじかんをもたせていただきます。
えほんにまつわる話と、えほんをよみます。
自分でページをめくるのとはちがい
えほんをよんでもらうこと、子どもだけでなく、おとなにもその心地よさをあじわってもらう時間になれば・・・とおもいます。

    *    *    *

中学の国語の教科書にのっていた、八木重吉の詩が好きでした。
たいがい教科書はつまらないものに思えましたが、その詩のページは家でも繰り返し見ました。
他に萩原朔太郎、高村光太郎、谷川俊太郎の詩がならんでいたように記憶していますが、八木重吉の詩が一番好きでした。
図書館にいって、詩の本を借りて読みました。
そのころ 大切にしていたりぼんの付録の陸奥A子さんのノートに好きな詩を書き写しました。
そのノートは、今も手元にあります。

自分でなにか詩のようなものを書きたいとおもいましたが、続きませんでした。
あるとき、寺山修司の「ポケットに名言を」という本を読みました。
自分の心にとまった短い数行の文章を集めた本でした。

それを読んで、これなら、わたしにもできるなあと、ノートに書くことにしました。
一番最初に書いたのは、そのときテレビで流れていたCMのコピーでした。
(そのときはコピーという言葉も知りませんでした)

「缶ビールの空き缶と破れた恋は、お近くのくずかごへ」

でした。(その当時は分別じゃなかったですからね)
大人になってからそれをつくられたのが、有名なコピーライターの方で、雑誌のインタビュー記事のなかで、そのコピーが自分の転機になったとおっしゃっていて、そうなんだ、わたしもすきだったと
その記事にむかって、心の中で叫びました。(本屋で立ち読みしていたので・・・)

そのときから 好きな文章や映像でながれた台詞をかきとめるのが、今も続いています。

今朝のニュースで、世界中の高層建築物に命綱なしで登る人が、
「好きというより、やってしまうんだ」
と言っていて、なるほどな・・・と思いました。

    *    *    *

英語でも微妙なニュアンスは、わからないものの 時々印象に残るフレーズがあります。
(丸ごと理解できないので・・・)

キーラ・ナイトレイが美しい ジェイン・オースティン原作のラブストーリーの古典
映画「プライドと偏見」の中で、
当時は女の人に相続権がなかったそうで、ヒロインの友だちが相続のために結婚すると知らせにきたシーンで、その友だちがヒロインにむかって、言います。

Don't judge me.

わたしを裁かないで。という感じでしょうか。
この映画の監督が、このシーンのセリフは、エマ・トンプソンが書いたんだよ。いいセリフだね。
と聞いて、女性的なセリフなのかな・・・と思いました。

”I've got under my skin”
という スタンダードナンバーが好きです。
はじめてきいたとき

use your mentality
wake up to reality

というフレーズが耳にのこりました。
考えてみるのよ、現実を見なくちゃ、
という風でしょうか。その前に

and repeats and repeats in my ear
"Dont'you know, little fool,
you never can win

とあります。
ばかね、みのりっこないわって繰り返し耳元でささやく声がきこえる。
というかんじ。

but each time I do ,
just the thought of you makes me stop before I begin
'Cause I've got you under my skin

そのとおりだと思うの。だけど、あなたをおもうとストップしてしまう。
それは、あなたが、わたしの中(under my skin)にいるから・・・ 

みたいな歌でした。(ちゃんとした訳は他でみてくださいね)
一度も I love you と言わずに、やさしい言葉で こんなにせつない恋のストーリーを
つくりだしてる。でもどこか、でも恋するって、あまくてすてきだよね?といっているような
時間も空間もこえてまっすぐに響く歌がすてきだなあとおもいます。

    *    *    *

写真は、晩ごはんライブのためのえほんとかわいらしいフライヤー。




2015年6月7日日曜日

祝福の6月のオシロイバナ そしてBarカウンターの質問のこたえは、魚屋の大将と・・・


6月のfour-o'clock(オシロイバナ) kinako は・・・

13日土曜日 京都五条モールギャラリー8
15日月曜日 中崎 common cafe ぽっけの日
17日水曜日 天満いんたあばる 晩ごはんライブ
21日日曜日 天満ナチュラルマーケット

 わたしにとって、祝福の睦月、
足圧ではなくて、17日夜は勾玉さんの晩ごはんライブで
えほんのブックトークとよむ時間をいただきます。

ちょうど、一年前の6月 ナチュラルマーケットに初めて参加させてもらいました。
看板とかないんですか?
と聞かれて、びっくりしてたわたしをここまで連れてきてくれたナチュラルマーケット。
21日に足圧をうけてくださった方に、ちいさな幸運のお福わけを・・・とおもっています。

    *    *     *

その日、思っていたより緊張していた自分に甘く、時々行くお店のBarカウンターに座りました。
(ノンアルコールなわたしの飲むのは、ジンジャーエールだけど・・・)

その夜、コンテンポラリーダンサーの方が同じカウンターに座ってらして、ダンスの話から、
わたしが、田中泯さんが好き、かっこいい!と言ったら、
どこがカッコイイと思うんですか?
と聞かれて、うーん・・・となって、すぐにこたえられませんでした。

かっこいいって誰にどんなときおもうのかな、
としばらく自分の中で、その問いが続きました。

この間、魚屋の大将が、鯛に塩をふるとき、お相撲さんみたいにがしっと塩をつかんで
頭より高く、手をかざして、豪快に塩をふってくれたのは、めちゃめちゃかっこよかったなあ・・・

そしていつか読んだ精神科医の香山リカさんのインタビューがうかびました。
カウンセリングの過程で、患者さんが内面を解決していき、自分なりの言葉で表現し始めると、
かわいらしい、美しいと、はっとするのだそうです。

「見せかけの表情でないほんとうの気持ちを表情に出だした時、その人らしい自然な美しさが見えてきます。たとえ社会の中でそんなに活躍してなくても、人間関係がそんなに広くなくても、そうできる人を、きれいな人だなと思うことはよくありますね。」
と続きます。

田中泯さんは、表現者ですが、そうでない人も
その人がいつわらない自分の声をきいて、過ごす日々の積み重ねの中から、
その人らしい、その人だけのほんとうの音を奏でるとき、
踊るとき、
話すとき、
コップをカウンターにコトリと置くとき
鯛に塩をふるとき
エトセトラ、エトセトラ

かっこいい、うつくしい と
おもわず、ひきこまれるのではないかなあ
というのが、今のところのこたえらしきものです。

   *    *    *

写真は五条モールのオセロさん。

2015年5月29日金曜日

5月31日 日曜日京都五条モールギャラリー8でsokuatsu そして抱きしめられるよわいわたしの奏でる音

 
 5月31日日曜日に京都五条にある複合ショップ、五条モールの中のギャラリースペース8でsokuatsu(足圧)です。12時から19時までです。
静かな街並みのしっとりした町屋でお待ちしています。
ステキな古本屋さんや雑貨屋さん、Barもある 建物です。

    *     *     *

 その日、倉庫のような空間のカウンターでチャイを飲みながら、会って、二回目にお話しする人に
「あなたは、よわいよ。
人はかわらないから、自分がかわらないと・・・
よわさを埋め合うのじゃなくて、補い合うことをしないとね。」
と言われました。

そうか、わたしは、どうしようもなく、よわいのだな・・・
わたしとだれか
わたしとわたしの目の前の出来事の数々、
苦しみや悲しみと感じることは、自分でつくりだしている気がしていたけれど、
それはみんな わたしのよわさが つくりだしているのだなあ、
とその言葉をうけとって、なんだかすがすがしい気持ちになりました。

わたしはよわい
と自分にはっきり言うことで、明るい心もちになりました。

 また別の日に 初めて会ったひとにわたしの今までのことを話していて、
あなたのその子どものころから握りしめている「さみしい」という気持ちを
とにかく見つめ続けてください。
そうすれば、あなたはかわることができて、さみしいからではなくて、ただ好きだから好き
と人に求めなくてもよくなります、
と言われました。

子どものころからの自分をおもうと、いつもいつもさみしくて、そとにばかり満たしてもらうことを求めていたなあ、
そして、自分のことが全然好きじゃなかったなあ。
そんなにずっと「さみしい気もち」をにぎりしめて今まで、過ごしてきたなんて・・・
そして不思議なことに、自分の中にそんなにつよくにぎりしめていたものがあると意識すると、
どんどん身体と気持ちがゆるんでくるようでした。

そのあと川べりの珈琲店で、あおい花もようのカップの浅いり豆の珈琲をひとりでのんでいたら、イスに座っているのに、身体がうかんでいるように感じました。
それから、わたしはこんなにしあわせなのに、どうして、思いどおりにならないことを一生懸命悲しんでいたんだろう。もうじゅうぶん、いろんなよいものをうけとっているのに・・・というおもいでいっぱいになりました。

 またある日、
静かなピアノの曲が流れるスタジオでのコンテンポラリーダンスのワークショップで、
講師の方が、
肋骨を意識してみてください。肋骨は中にある内臓をまるで抱きしめているようでしょう。
と言われました。

その言葉をきいて、
ひとは生まれながらにもう抱きしめられているんだ。もう愛されているんだな。
だから、愛してほしいと外に求めなくても大丈夫なんだな。

愛されたいわたしじゃなくて
愛したいわたしの音を 日々奏で続けたらいいんだ。
何年したか、何年するかじゃなくて、今日奏でられた。明日も奏でよう。それだけなんです
と言ってたオルガン奏者の言葉のように・・・

 波うつことの多く、いくつもの道しるべにたすけられて、あるき続ける日々です。

    *    *    *

写真は五条モールのオセロさん。

2015年5月11日月曜日

5月17日天満ナチュラルマーケット そして あとから気がつく、名前のつかないこと

 
5月17日日曜日は天満ナチュラルマーケットにsokuatsu(足圧)参加させていただきます。
1年前の5月に初めてナチュラルマーケットに遊びに行って、
どこかで見てこられたんですか?とスタッフの方に声をかけてもらいました。
それから、自分が参加する側になっているのをそのとき全然知りませんでした。

 5月のイベントです。

15日金曜日 枚方鍵屋別館 bitter     10時から18時
17日日曜日 天満ナチュラルマーケット  11時から17時
23日日曜日 交野green stone       11時から16時
31日日曜日 京都 五条モール レンタルスペース8 12時から19時   

     *     *     *

 友だちという言葉は、長い間使ってよいものかよくわかりませんんでした。
あの人はわたしの友だち とおもっていても、相手はそうおもっていないかもしれないな、
という気持ちが、その言葉を使うことをためらわせました。

 小学生の時、学校の提出物の中に、仲のよい友達を書く欄がありました。
クラスの中で、わたしはYちゃんがとても好きでした。
いつもお母さんのお手製の花模様のワンピースを着て、運動も勉強もできて、字もきれいで、
ピアノをひく、かわいい女の子でした。Yちゃんはいつも近所の幼なじみのUちゃんといましたが、
そのあいまにわたしとも遊んでいました。
わたしは、その欄にYちゃんの名前を書きたいとおもいました。でも、Yちゃんは、Uちゃんの名前を書くに違いないから、やめておこうと、別の子の名前を書きました。あとから、Yちゃんが、
友だちのところにあなたの名前をかいたよ、わたしの名前を書かなかったの?
と言ったとき、いろんな気持ちを言葉にできなくて、
うん、書かなかった、
としか言えなかったのを覚えています。

 エッセイストの山本ふみこさんの友だちのことを書いたものを読んで、ひととひとのつながり
をおもいました。それは、

 友達とふたり、向かい合って静かにものを食べていたとき、ふと、ほんとうにふと、友達というのは、いつの間にかなっているものだというふうに思った。
・・・・
 ただ自然に、誠実に相手の前に立っていればよかった。ひととの関係に名前をつけたりせずに。

                 「おとな時間のつくりかた」 山本ふみこ PHP

という文章でした。友だちという言葉がわたしの中で腑に落ちた瞬間でした。
 
 あるとき、
誰かとつながりたいとおもうのは、だめなのかな?
と言ったら、
それは、あとから、つながっているってわかるもので、つながろうとするのは、ちがうよ。
と言われて、はっとしたことがありました。

そう言ってくれたひとを わたしは、友だちとおもっています。

 


2015年4月21日火曜日

4月23日ニューオーモンのチエリヤさんでsokuatsu(足圧)そしてよく見えない自分と波うつ世界から帰る母を待つこと

4月23日木曜日は京都三条の仁王門通りにある複合ショップニューオーモンのチエリヤさんでsokuatsu(足圧)の日です。元八百屋さんの町屋の二階で11時から18時までです。
お友だちのお灸のよだれちゃんとお待ちしています。

     *     *     *

 二十代の終わりに一緒に住んでいた人とお別れすることになり、十代のころからの友だちに、
「あんな、わたし、別れるねん」
と言ったら、
「えっ、好きな人できたん?」
という返事でした。わたしは、おどろいて、
「えーっ、第一声がそれ・・・ しかもあってる・・・」
と言うと、
「あの彼な、すごいいい人そうやったけどな、あんたの今まで好きになった人みてたやんか。今回今までとちがって(!) たまたまスムーズにいったけど、彼ではあかんやろなあ、思っててん」
ということでした。
友だちにはよく見えていたわたしの姿が、自分では、全然見えていなかったんだ・・・
自分のことは、自分ではわからないって、ほんとうだなあとしみじみ思いました。

いつか、宮沢りえさんが、年下の女優さんに、
「若気の至りは、しとくものよ」
と言ってらして、説得力あるなあと思いました。
わたしの場合はよくわかりませんけれど・・・

 わたしの母はわたしが10歳のころから20年ほど、強いネガティブな妄想につかまると現実世界がよくみえなくなるということが、時々ありました。
 夜中に泣きながら母がわたしを起こしにきたり、
眠れなくて昼間、もうろうとして、わたしが見ていたテレビに向かって、自分の噂をしていないかと心配したり、
見張られているから掃除をしなくちゃいけないといって、部屋に水をまいたり・・・
ということが、予想できない波のようにふいにやってくるのでした。
子どもだったわたしは、その波が来るたびに母と一緒にその不安や恐れに満ちた世界に放り込まれました。でも大人になると、影響をうけつつも、不安でいっぱいの母と距離をおけるようになりました。 
 あるとき母は、自分はダメな人間だから、もう誰にも相手にされないというようなことをふとんに横になって、言いました。わたしは、なんとなく、別に外のひとにお金もらって生きてるわけちゃうし、家族がいてるし、なんとかなるんちゃう?みたいな気楽な返事をしました。
そうしたら母が、ひゅう~と音がするようにゆるんだのが、はっきりと感じられました。
そのときわたしは、ああ、子どものときは、一緒におろおろしていたけど、こんなふうに静かに
接すると、相手も落ち着くんだなあ・・・とおもいました。

 だんだん遠のいていた母の波が久しぶりにきたのは、弟の結婚が決まった時でした。
母は父に見捨てられる、と思い込んでいるようでした。
そのとき、母は息子の結婚という喜ばしいけれど、さみしい出来事をうけいれるために、
他の不安をつくりだしているようにわたしには思えました。
そしてその父に対する母の不安に、まわりがなにか正しいようなことを言わずに、母自身が必要なだけ、その不安に身をおいて帰ってくるのを、ただ待つしかないんだと感じました。

その波がやがてひいて、そのあと、もう波はきませんでした。

子どものときからそんな母の姿をみて大人になったことは、
その渦の中にいるときは、そうは思えませんでしたが、今ではおおきなgiftのようにおもっています。

 
 写真は京都のにぎやかな木屋町通りから細い道の文字通り路地裏にある
Barのような雰囲気のEREPHANT FACTORY COFFEEの壁にうつった影。

2015年4月13日月曜日

4月18日土曜日 green stone さんの sokuatsu(足圧)の日 そして知らない道が教えてくれたこと


 4月18日土曜日は交野(かたの)のgreen stone さんの二階で11時から18時までsokuatsu(足圧)です。住宅街の静かなお店の畳の部屋で、ゆったりした空間です。からだも気持ちもふんわり軽やかになれる時間がながれます。

 雨の日々から晴れた11日土曜日、池田のCafe gallery phtea さんでの初めてのsokuatsu(足圧)もおかげさまで、受けてくださる方が続いて、無事おえることができました。天窓から陽の光がさす空間の奥の縁側で過ごせた楽しい一日でした。

ありがとうございます。

     *     *     *

 高校生になったころ、クラブをやめて、一緒に過ごす友だちもいなくて、毎日放課後や休みの日に、なにをしたらよいかわかりませんでした。

 仕方なく 雨の日以外は、通学用の自転車に乗って、知らない道を(といってもすぐに家に帰ってこられるぐらいの距離)走ることにしました。

ごく普通の家や団地、街路樹やよくある草なんかを見ながら走って、今日はここまでと引き返す
ということを繰り返していました。
あんまりひまではじめたことでしたが、お金もかからず、誰にもなんにも言われず、初めて走る道はわくわくしました。

 ある日舗装していない土手をでこぼこ揺れながら走っていたら、太陽の光がきれいに見えて、
ふいに、この世界、わたしの今いる世界には、まだ知らないこわいことや汚いことや美しいことがあって、人によって見えるものが全然違うけれど、わたしもマイケル・ジャクソンも(!)、ドラマで見るやばそうな人もすごい芸術家も、たったひとつの同じ世界を同時に生きているんだ・・・
と 感じました。
 今でもその時の 少し土ぼこりのする明るい道の、なんでもない風景が残っています。

 また別のある日、そのころ町によくあった小さな本屋さんに入ってみました。そういえば小学生の時は、図書館でよく本を借りて読んだけど、近頃、読んでないなあと棚を見てまわりました。
文庫本なら買えそうでした。でも聞いたことのある作家の本はどれも難しそうで、読めそうにありませんでした。
 中で講談社文庫に読んだことのある佐藤さとるさんのコロボックルのシリーズ、ファンタジーや
児童文学と呼ばれるような本がありました。
これなら、短くて絵もあるし、読めそう・・・と思い買って帰りました。
その本が楽しくて、図書館にまた行くようになりました。

そのうち文章を書くことがしたくなりました。
わたしは、勉強もとくにできず、楽器も歌もだめで、スポーツも苦手で、見た目もなあ・・・
でもなんか、文章書くのは、できるかも。
となぜか思って、高校を卒業して、学生になったとき文芸部というところで文章を書くことをしてみました。これが全然さえなくて、何か形にすることもなくそのまま卒業しました。

でも本を読むことは好きで、ぽつぽつと読み続けました。

10代のすることのないひまでさみしい、なんにも目に見えて積み重ねることのなかった日々。
でもその日々が、自分の好きなことを教えてくれて、今のわたしの毎日を助けてくれています。

そのころはたださみしいなあ、ひまだなあとおもって、過ごしていましたが、
あの時間があって、よかったとおもいます。
そしてそのときはそれが自分にとってよいことだとは、まったくわからなかったな!と
おかしくなります。


 写真はHASEさんの展覧会のもの。
誰かを思って心が充たされる
というすてきなタイトルの作品。

2015年4月6日月曜日

4月11日土曜日Cafe gallery phteahさんでsokuatsuの日 そして珈琲にこめられたもの

今週の土曜日4月11日は、池田のCafe gallery phteah さんで、12:00~18:00 sokuatsu(足圧)の日です。
Punchi Lamai展の期間中に スリランカプロジェクトのためのチャリティ足圧です。
近所に ieさんや、すてきなお店も色々ある場所で、お散歩にぴったりのところです。

     *     *     *

 人と人とのかかわりは、ときにこんがらがったり、きれそうになったり、不器用なわたしは、途方にくれることが、しばしばです。

その日、ちょっとした出来事に気持ちが波うって、どうしたらよいのかわからない気持ちのまま、お店のカウンターに座りました。
珈琲をたのんでから、待つ間、どうしようもなくこみあげてきて、はこばれた珈琲をのみながら、涙を流してしまいました。
店主さんは、静かにティッシュをさしだしてくれて、
大丈夫、元気になれますよ
と 見送ってくださいました。

それから時間がながれて、雨の夕暮れどきに、お店に行くことができました。
そのとき何組かいらしたお客さんは、みな本を読んでらして、わたしも珈琲をたのんでから
本を読んでいました。
お待たせしました、と珈琲をカウンターに置いてくださった手が、とてもやさしくて、
ああ、いつもこんなにやさしい手でコーヒーカップを置いてくださっていたのだな・・・
とおもいました。

帰りぎわに、
この前はあんな風になってしまってすみません。
気持ちの整理に時間がかかって、なかなかお店に来る勇気がでなくて・・・
まだ、すっきりできてないんですけど、決めたことをわたしなりにやってみようとおもっています。
これから、きれてしまったようにおもえる糸を
またあたらしく紡いでいけるのか、きれてしまったままなのか、今のわたしには、わからないのですけれど、きっと、時間がおしえてくれるとおもいます。
といったわたしに、店主さんは、
ええ、いらしたときに、沈んではるのわかっちゃいました・・・
ゆっくり元気になってください。
と、見送ってくださいました。

ああ、わたしを見て、言葉ではなくて、やさしい気持ちをそっと珈琲にこめてくださったんだ。だからいつもにもまして、コーヒーカップを置く手に、じーんとしたんだな・・・
とわかりました。

そして、お店をでて、まばらな人通りの商店街を歩きながら、また涙を流してしまいました。

友だちとは違う、ときおりお店で、つまりお仕事で、顔を見るだけの店主さんですが、
そんなふうに、人と人として接してくださることが、とても幸せに感じた時間でした。

 少し前、離れて暮らしていて中々会えないお友だちが、ハンバーガーのお店のおみくじを見せてくれました。

You'll see.

とあって、
そのうちわかるよ。
みたいなニュアンスでしょうか。

今どうなるのかわからないで、きつかったり、もやもやしていたりすることも
時間の助けをかりて きっとわかるよ。
という、メッセージをもらった気がして、うれしくなりました。

 学生時代からの友だちに
年を重ねるって、失うものや、そこなわれるものがどんどんふえていくような気がして、時々やりきれない気持ちになったりするね・・・
と言ったら、
ぼくなんか、一年中やりきれないから、大丈夫、大丈夫!
と言葉をかえしてくれました。
わたしは、その言葉で、おいおい泣いて、そして、笑ってしまいました。

あたたかいものを たくさんうけとった日々でした。

2015年3月13日金曜日

3月25日水曜日チエリヤさんの癒しの日 そしてあかりをけしたBarと外国のコイン

 
 
 3月25日水曜日に京都三条の仁王門通りにあるニューオーモンという複合ショップの中のチエリヤさんで sokuatsu(足圧)させていただぃます。
 アロママッサージのみわこさんもいらっしゃいます。
 
 ベトナムのバインミーやタイカレー。おばんざいもみんなおいしいすてきなお店です。
 
 ゆったりした町屋の二階でお待ちしています。
 
 
*           *           *
 
 
20代のころ住んでいたまちの隣の西宮の夙川というきれいな街並みを散歩するのが好きでした。
 
ケーキ屋さんや珈琲屋さん、教会、輸入えほんのお店などが並ぶ中に、半地下のすてきなBarがありました。あまりお酒は飲めないけど、友だちを誘って行ってみました。街並みにあったきれいな落ち着いた雰囲気でした。
 
 それから何回か友だちとそのお店に行き、あるときひとりでそのお店に行きました。
 
 ひとりでBarに行くのは、そのころのわたしにはとても思い切ったことに感じられました。
 
 カワンターのはしっこに座っていたら、お店のひとが、
 
「いつも友だちときて、うちBarなのにけっこうお皿ならべて食ってますよね?」
 
と言われて、そうか、こういうBarではあんまり食べないものなんだなあ、今度から気をつけよう・・・と思ったりしました。
 
ぼんやりしたり、ときおりお店の人と話したりしていたら、どんどん時間がたって、終電の時間を過ぎていました。でもまあ隣の市だから、タクシーで・・・と思って、お財布をみたら、お店の支払いで、もう残りわずかな金額でした。
 
うーん、どうするかなあ、と思ってたら
 
お店の人が
「ぼく、お店閉めたら、車だからおくりましょうか?どのあたりですか?」
 
と言ってくださって、今思うと、顔に「タクシー代がない」って書いてあったんでしょう。
 
今日はじめて話したぐらいだし、常連でもないし、
ちょっとびっくりしましたが、とにかく帰れる、と思ってお願いしました。
 
その人が後片付けをしている様子を座って見ていると
Barのあかりをパチンと消したとき、そのころ話題だった田村正和さんがBarをしていて
井上陽水さんの歌が印象的なドラマみたいだなあと思って
「あのドラマのBarみたいですね」と言ったら、
「ああ、そういう人けっこういますよ。ありがちな感想ですよ」
と言われ、そうか、ありがちなんだ・・・と思ったりしました。
 
それから車で少しわたしのつまらない失恋の話なんか聞いてもらって、
「そう、がんばってね。いいこともあるよ」
と言ってもらって、家に帰りつきました。
 
なんだか不思議な夜だったなあと
思ってバックを見たら、さいふがありませんでした。車の中に落としてしまったのでした。
そのとき一番に思ったのは、ああ、からっぽのおさいふを見られてしまう・・・ということでした。
どうしようかなあ、と思っているうちにすぐにその財布は家に郵送されてきました。
それもすごく驚きました。なんで、住所がわかったのか・・・
 
からっぽのおさいふを開けたら、見慣れない外国のコインが入っていました。四葉みたいな模様があるコインでした。
お店の人が、失恋したというからっぽのさいふ持ってる女の子に、幸運をね、っていれてくださったんだなあと、胸がいっぱいになりました。
 
でもどうしてもおさいふが空だったことがはずかしくて、そのお店にいくことができませんでした。
そのうちに、引越して、夙川に行くこともなくなり、Barも違うお店になりました。
 
名前もわからない顔も覚えていないそのお店の人のちょっとクールな声を思い出すと、
はずかしいってことにこだわらずに、ちゃんとお礼を言えばよかったなあ、
と思います。
 
 
なんだか、どこをとってもまぬけな、でも幸せな出来事でした。
 
 
写真はsinduさんの作品、マハラジャに続く光のふりそそぐ道です。
 
 


2015年3月6日金曜日

3月14日 green stone 足圧の日 そしてかきまぜられる頭の中と知りたいほんとうの答え

 
 
 3月14日土曜日は、交野(かたの)のgreen stone さんでsokuatsu(足圧)の日です。

静かな住宅街のおうちの二階で お待ちしています。  

            *           *             *

 少し前に、本棚のある落ち着いたBarで、隣り合わせた方が、子どものころ「いたずらきかんしゃちゅうちゅう」が好きだったと話されました。

 作者はバージニア・リー・バートン 訳はあの「花子とアン」の村岡花子さんです。

 
 同じバートンさんの「ちいさいおうち」
ついこの間みた映画「小さいおうち」の中で、妻夫木聡さん演じる青年が誕生日プレゼントにもらっていました。

その「ちいさいおうち」の訳者石井桃子さん。
「くまのプーさん」「ピーターラビット」「うさこちゃん」等々たくさんの翻訳をされた方です。
その石井桃子さんが、自宅で文庫をされているとき、アメリカからバートンさんがいらしたそうです。

その文庫に集う子どもたちにもバートンさんのえほんはとても人気があり、
なかでも バートンさんのえほんが大好きな女の子が バートンさんに会った様子を描いた石井さんの随筆を読んだ記憶があります。
小学生の女の子と言葉の違うバートンさんの時間を石井桃子さんはじっと見守ったあと、
その女の子に「バートンさんはどうだった?」と聞いたりしなかった。
わたしはそんな質問をすることで、せっかくのその子が体験した時間を持っている頭の中をかきまぜたりしたくなかった。
というようなことを書いてらっしゃいました。

大人は子どもに 「どうだった?」「おいしかった?」「たのしかった?」
とつい聞きたくなります。
そして、子どもが話そうとしている時に、聞かずにいたりします。

ベバリイ・クリアリー作の楽しい読み物「がんばれヘンリーくん」シリーズの中のラモーナという女の子を主人公にした「ラモーナ、明日へ」という作品の中で、小学生になったばかりのラモーナが引っ越してきた新しいクラスメイトのおうちに行ったときに
その女の子のお母さんがラモーナに聞く場面があります。

「まあ、あなた、すてきなくつをはいているのね。・・・デイジーも新しいくつを買わなきゃならないんだけど、このへんのお店がよくわからないものだから。あなたは、どこでくつ買うの?」

それを聞いてラモーナはそのお母さんを好きになります。
なぜでしょうか?
それは、

おとなの人で、ほんとうに答えが知りたくて質問する人はそんなにいません。
デイジーのおかあさんは、「学校おもしろい?」とか、「大きくなったら、何になりたいの?」とか聞く大人とは明らかにちがっていまいた。

と続きます。子どもの気持ちに近い作者だからこそ・・・と印象にのこりました。

わたしもあなたも こどもを含めて誰かに何かを聞くとき、ほんとうの答えがしりたくて
聞いているでしょうか。

人に何かきくということをおもった石井桃子さんとクリアリーさんの文章でした。

2015年2月4日水曜日

2月15日日曜日天満ナチュラルマーケット そしてあずかった時間と腰の痛み

2月15日日曜日は天満ナチュラルマーケットにsokuatsu(足圧)参加させていただきます。
 
 いつもの、おいしい珈琲とケーキも楽しみです。
野菜いっぱいのランチはお子さんと一緒に食べられるやさしい味です。それって、ありそうで、なかなかめぐりあうのがむずかしいことの気がします。

                  * * *

 雪のちらつく一月の終わりの週末に静かな住宅街にあるお店で足圧させていただきました。

何名かご予約頂いた方の他に直前にお電話してきてくださったお客さまが、いらっしゃいました。
お話を聞いてみると、
予約したかったのだけれど、小さな子どもの機嫌がわからないので、ぎりぎりまで待って、今ならいける!と子どもをあずけて、急いできました。楽しみです。普段ひとりの時間を持つのが難しいので・・・
ということでした。

雪の降る寒い中、そんな風にしてきてくださったのだなあ・・・と思いました。

そして、いつか、子どもが見ていた嵐のドキュメンタリー番組が浮かびました。

ライブ中に腰の痛みが激しくなってジャンプができなくなった嵐のニノ。
ダンスは普通に踊り切り、翌日のインタビューが、

お金を払って来てくれてるお客さんの時間あずかってると、僕は思ってるんですよね。
腰が痛いとかってこっちの勝手な都合じゃないですか。それで踊れませんとか言われたら、
お金返してってなりますよね。そういうことだと思います。

というものでした。

その時のきっぱりしたニノの言葉を思い出して、
大きくいうと、足圧の時間は受けてくださる方の一日の時間のなかからその時間を預かっているのだなあと 改めて感じることができた日になりました。

少し前に腰がだるくなったとき、ヨガ教室の先生に、
今日は腰が動かしにくいのですが、やってみます。
と言ったら、先生は
無理せず、できる範囲でやればよい
と言ってくださって、はっとしました。

そうなのです。

できる範囲ですることが、今の自分のできることなんですね。
それがすべてと言ってもよい気がしました。

あずけていただいた足圧の時間を
今のわたしのできる範囲で 受けてくださる方に過ごしていただこうと 思いました。








2015年1月14日水曜日

1月18日天満ナチュラルマーケット そして基本のラブコメディ

                  
 
 あたらしい年もどんどん過ぎていきます。今年もどうぞよろしくお願いします。
 
 1月18日第3日曜日は、天満ナチュラルマーケットです。ここからスタートさせてもらえて幸せです。またあたらしい気持ちで足圧をさせていただこうと思います。
 
 
                    *  *  * 
 
 数年前体調をくずして、手術を体験した後、身体は回復していきましたが、少しのことで、びくびくして、眠りも浅く、不安でいっぱいの毎日でした。

 ある日、ママ友と映画の話になり、
「今週、テレビでする映画、娘と映画館で見たら、すごくよかったから、ぜひ見て」
と言われました。その映画は普段は見ないディズニー映画だったので、どうしようかなあと思いましたが、ぜひ!ということだったので、録画して見てみました。

 
 実写とアニメが混ざった作品で、冒頭のアニメシーンで、最後まで見れないかも・・・と思いましたが、だんだん引き込まれていきました。
そしてクラシカルなボウルダンスシーンでは(美女と野獣のイメージだそう)涙がこぼれました。

 それから三か月程の間、毎日その映画を見続けました。
 どうしてそうなっているのか自分でも不思議でした。最初、病気の再発の恐怖から逃げているのかな?と思いました。
 
 何度も見ているのに、大好きなダンスシーンを見ながら、泣いて、「あきらめないから・・・」と思っている自分がいて、なにをあきらめたくないんだろう?とわかりませんでした。

そしてふと、このかわいらしいラブコメディを見ながら、病気の不安でそこなわれてしまった自分自身をとりもどしていってるのだな・・・とおもいました。

ずっと、軽くすんでよかったね、ラッキーだったねと周りの人に言われ続けて、自分でもラッキーだったから、感謝しなくちゃいけないと思い込んでいて、そこにあった不安を閉じこめてしまって、よけいに苦しかったんだ。そう思ったら、自分の中で何かがとけていくようでした。

その映画のタイトルの邦題は「魔法にかけられて」でした。映画の持つすばらしい魔法でした。


ラブコメディってお話の基本だなあと思う。
幸せであることって全ての人の願いだと思うけど、
幸せになろう、幸せであろうって思いが人を生きさせて幸せにする原動力だとも思う。

少し前に、この言葉を友だちにおくってもらったときに自分のことを思いながら、ほんとうにそうだなあと、胸がいっぱいになりました。

* * *

ナチュラルマーケットには時々えほんを持っていきます。
今度は、
「クマよ」   星野道夫さんのそこから風に吹かれるような心地の写真絵本
「太陽をかこう」 ブルーノ・ムナーリのステキな太陽と須賀敦子さんの訳文という贅沢なえほん
の二冊です。ご興味ある方は、ぱらぱらめくってみてくださいね。