2015年4月21日火曜日

4月23日ニューオーモンのチエリヤさんでsokuatsu(足圧)そしてよく見えない自分と波うつ世界から帰る母を待つこと

4月23日木曜日は京都三条の仁王門通りにある複合ショップニューオーモンのチエリヤさんでsokuatsu(足圧)の日です。元八百屋さんの町屋の二階で11時から18時までです。
お友だちのお灸のよだれちゃんとお待ちしています。

     *     *     *

 二十代の終わりに一緒に住んでいた人とお別れすることになり、十代のころからの友だちに、
「あんな、わたし、別れるねん」
と言ったら、
「えっ、好きな人できたん?」
という返事でした。わたしは、おどろいて、
「えーっ、第一声がそれ・・・ しかもあってる・・・」
と言うと、
「あの彼な、すごいいい人そうやったけどな、あんたの今まで好きになった人みてたやんか。今回今までとちがって(!) たまたまスムーズにいったけど、彼ではあかんやろなあ、思っててん」
ということでした。
友だちにはよく見えていたわたしの姿が、自分では、全然見えていなかったんだ・・・
自分のことは、自分ではわからないって、ほんとうだなあとしみじみ思いました。

いつか、宮沢りえさんが、年下の女優さんに、
「若気の至りは、しとくものよ」
と言ってらして、説得力あるなあと思いました。
わたしの場合はよくわかりませんけれど・・・

 わたしの母はわたしが10歳のころから20年ほど、強いネガティブな妄想につかまると現実世界がよくみえなくなるということが、時々ありました。
 夜中に泣きながら母がわたしを起こしにきたり、
眠れなくて昼間、もうろうとして、わたしが見ていたテレビに向かって、自分の噂をしていないかと心配したり、
見張られているから掃除をしなくちゃいけないといって、部屋に水をまいたり・・・
ということが、予想できない波のようにふいにやってくるのでした。
子どもだったわたしは、その波が来るたびに母と一緒にその不安や恐れに満ちた世界に放り込まれました。でも大人になると、影響をうけつつも、不安でいっぱいの母と距離をおけるようになりました。 
 あるとき母は、自分はダメな人間だから、もう誰にも相手にされないというようなことをふとんに横になって、言いました。わたしは、なんとなく、別に外のひとにお金もらって生きてるわけちゃうし、家族がいてるし、なんとかなるんちゃう?みたいな気楽な返事をしました。
そうしたら母が、ひゅう~と音がするようにゆるんだのが、はっきりと感じられました。
そのときわたしは、ああ、子どものときは、一緒におろおろしていたけど、こんなふうに静かに
接すると、相手も落ち着くんだなあ・・・とおもいました。

 だんだん遠のいていた母の波が久しぶりにきたのは、弟の結婚が決まった時でした。
母は父に見捨てられる、と思い込んでいるようでした。
そのとき、母は息子の結婚という喜ばしいけれど、さみしい出来事をうけいれるために、
他の不安をつくりだしているようにわたしには思えました。
そしてその父に対する母の不安に、まわりがなにか正しいようなことを言わずに、母自身が必要なだけ、その不安に身をおいて帰ってくるのを、ただ待つしかないんだと感じました。

その波がやがてひいて、そのあと、もう波はきませんでした。

子どものときからそんな母の姿をみて大人になったことは、
その渦の中にいるときは、そうは思えませんでしたが、今ではおおきなgiftのようにおもっています。

 
 写真は京都のにぎやかな木屋町通りから細い道の文字通り路地裏にある
Barのような雰囲気のEREPHANT FACTORY COFFEEの壁にうつった影。

2015年4月13日月曜日

4月18日土曜日 green stone さんの sokuatsu(足圧)の日 そして知らない道が教えてくれたこと


 4月18日土曜日は交野(かたの)のgreen stone さんの二階で11時から18時までsokuatsu(足圧)です。住宅街の静かなお店の畳の部屋で、ゆったりした空間です。からだも気持ちもふんわり軽やかになれる時間がながれます。

 雨の日々から晴れた11日土曜日、池田のCafe gallery phtea さんでの初めてのsokuatsu(足圧)もおかげさまで、受けてくださる方が続いて、無事おえることができました。天窓から陽の光がさす空間の奥の縁側で過ごせた楽しい一日でした。

ありがとうございます。

     *     *     *

 高校生になったころ、クラブをやめて、一緒に過ごす友だちもいなくて、毎日放課後や休みの日に、なにをしたらよいかわかりませんでした。

 仕方なく 雨の日以外は、通学用の自転車に乗って、知らない道を(といってもすぐに家に帰ってこられるぐらいの距離)走ることにしました。

ごく普通の家や団地、街路樹やよくある草なんかを見ながら走って、今日はここまでと引き返す
ということを繰り返していました。
あんまりひまではじめたことでしたが、お金もかからず、誰にもなんにも言われず、初めて走る道はわくわくしました。

 ある日舗装していない土手をでこぼこ揺れながら走っていたら、太陽の光がきれいに見えて、
ふいに、この世界、わたしの今いる世界には、まだ知らないこわいことや汚いことや美しいことがあって、人によって見えるものが全然違うけれど、わたしもマイケル・ジャクソンも(!)、ドラマで見るやばそうな人もすごい芸術家も、たったひとつの同じ世界を同時に生きているんだ・・・
と 感じました。
 今でもその時の 少し土ぼこりのする明るい道の、なんでもない風景が残っています。

 また別のある日、そのころ町によくあった小さな本屋さんに入ってみました。そういえば小学生の時は、図書館でよく本を借りて読んだけど、近頃、読んでないなあと棚を見てまわりました。
文庫本なら買えそうでした。でも聞いたことのある作家の本はどれも難しそうで、読めそうにありませんでした。
 中で講談社文庫に読んだことのある佐藤さとるさんのコロボックルのシリーズ、ファンタジーや
児童文学と呼ばれるような本がありました。
これなら、短くて絵もあるし、読めそう・・・と思い買って帰りました。
その本が楽しくて、図書館にまた行くようになりました。

そのうち文章を書くことがしたくなりました。
わたしは、勉強もとくにできず、楽器も歌もだめで、スポーツも苦手で、見た目もなあ・・・
でもなんか、文章書くのは、できるかも。
となぜか思って、高校を卒業して、学生になったとき文芸部というところで文章を書くことをしてみました。これが全然さえなくて、何か形にすることもなくそのまま卒業しました。

でも本を読むことは好きで、ぽつぽつと読み続けました。

10代のすることのないひまでさみしい、なんにも目に見えて積み重ねることのなかった日々。
でもその日々が、自分の好きなことを教えてくれて、今のわたしの毎日を助けてくれています。

そのころはたださみしいなあ、ひまだなあとおもって、過ごしていましたが、
あの時間があって、よかったとおもいます。
そしてそのときはそれが自分にとってよいことだとは、まったくわからなかったな!と
おかしくなります。


 写真はHASEさんの展覧会のもの。
誰かを思って心が充たされる
というすてきなタイトルの作品。

2015年4月6日月曜日

4月11日土曜日Cafe gallery phteahさんでsokuatsuの日 そして珈琲にこめられたもの

今週の土曜日4月11日は、池田のCafe gallery phteah さんで、12:00~18:00 sokuatsu(足圧)の日です。
Punchi Lamai展の期間中に スリランカプロジェクトのためのチャリティ足圧です。
近所に ieさんや、すてきなお店も色々ある場所で、お散歩にぴったりのところです。

     *     *     *

 人と人とのかかわりは、ときにこんがらがったり、きれそうになったり、不器用なわたしは、途方にくれることが、しばしばです。

その日、ちょっとした出来事に気持ちが波うって、どうしたらよいのかわからない気持ちのまま、お店のカウンターに座りました。
珈琲をたのんでから、待つ間、どうしようもなくこみあげてきて、はこばれた珈琲をのみながら、涙を流してしまいました。
店主さんは、静かにティッシュをさしだしてくれて、
大丈夫、元気になれますよ
と 見送ってくださいました。

それから時間がながれて、雨の夕暮れどきに、お店に行くことができました。
そのとき何組かいらしたお客さんは、みな本を読んでらして、わたしも珈琲をたのんでから
本を読んでいました。
お待たせしました、と珈琲をカウンターに置いてくださった手が、とてもやさしくて、
ああ、いつもこんなにやさしい手でコーヒーカップを置いてくださっていたのだな・・・
とおもいました。

帰りぎわに、
この前はあんな風になってしまってすみません。
気持ちの整理に時間がかかって、なかなかお店に来る勇気がでなくて・・・
まだ、すっきりできてないんですけど、決めたことをわたしなりにやってみようとおもっています。
これから、きれてしまったようにおもえる糸を
またあたらしく紡いでいけるのか、きれてしまったままなのか、今のわたしには、わからないのですけれど、きっと、時間がおしえてくれるとおもいます。
といったわたしに、店主さんは、
ええ、いらしたときに、沈んではるのわかっちゃいました・・・
ゆっくり元気になってください。
と、見送ってくださいました。

ああ、わたしを見て、言葉ではなくて、やさしい気持ちをそっと珈琲にこめてくださったんだ。だからいつもにもまして、コーヒーカップを置く手に、じーんとしたんだな・・・
とわかりました。

そして、お店をでて、まばらな人通りの商店街を歩きながら、また涙を流してしまいました。

友だちとは違う、ときおりお店で、つまりお仕事で、顔を見るだけの店主さんですが、
そんなふうに、人と人として接してくださることが、とても幸せに感じた時間でした。

 少し前、離れて暮らしていて中々会えないお友だちが、ハンバーガーのお店のおみくじを見せてくれました。

You'll see.

とあって、
そのうちわかるよ。
みたいなニュアンスでしょうか。

今どうなるのかわからないで、きつかったり、もやもやしていたりすることも
時間の助けをかりて きっとわかるよ。
という、メッセージをもらった気がして、うれしくなりました。

 学生時代からの友だちに
年を重ねるって、失うものや、そこなわれるものがどんどんふえていくような気がして、時々やりきれない気持ちになったりするね・・・
と言ったら、
ぼくなんか、一年中やりきれないから、大丈夫、大丈夫!
と言葉をかえしてくれました。
わたしは、その言葉で、おいおい泣いて、そして、笑ってしまいました。

あたたかいものを たくさんうけとった日々でした。