2015年5月29日金曜日

5月31日 日曜日京都五条モールギャラリー8でsokuatsu そして抱きしめられるよわいわたしの奏でる音

 
 5月31日日曜日に京都五条にある複合ショップ、五条モールの中のギャラリースペース8でsokuatsu(足圧)です。12時から19時までです。
静かな街並みのしっとりした町屋でお待ちしています。
ステキな古本屋さんや雑貨屋さん、Barもある 建物です。

    *     *     *

 その日、倉庫のような空間のカウンターでチャイを飲みながら、会って、二回目にお話しする人に
「あなたは、よわいよ。
人はかわらないから、自分がかわらないと・・・
よわさを埋め合うのじゃなくて、補い合うことをしないとね。」
と言われました。

そうか、わたしは、どうしようもなく、よわいのだな・・・
わたしとだれか
わたしとわたしの目の前の出来事の数々、
苦しみや悲しみと感じることは、自分でつくりだしている気がしていたけれど、
それはみんな わたしのよわさが つくりだしているのだなあ、
とその言葉をうけとって、なんだかすがすがしい気持ちになりました。

わたしはよわい
と自分にはっきり言うことで、明るい心もちになりました。

 また別の日に 初めて会ったひとにわたしの今までのことを話していて、
あなたのその子どものころから握りしめている「さみしい」という気持ちを
とにかく見つめ続けてください。
そうすれば、あなたはかわることができて、さみしいからではなくて、ただ好きだから好き
と人に求めなくてもよくなります、
と言われました。

子どものころからの自分をおもうと、いつもいつもさみしくて、そとにばかり満たしてもらうことを求めていたなあ、
そして、自分のことが全然好きじゃなかったなあ。
そんなにずっと「さみしい気もち」をにぎりしめて今まで、過ごしてきたなんて・・・
そして不思議なことに、自分の中にそんなにつよくにぎりしめていたものがあると意識すると、
どんどん身体と気持ちがゆるんでくるようでした。

そのあと川べりの珈琲店で、あおい花もようのカップの浅いり豆の珈琲をひとりでのんでいたら、イスに座っているのに、身体がうかんでいるように感じました。
それから、わたしはこんなにしあわせなのに、どうして、思いどおりにならないことを一生懸命悲しんでいたんだろう。もうじゅうぶん、いろんなよいものをうけとっているのに・・・というおもいでいっぱいになりました。

 またある日、
静かなピアノの曲が流れるスタジオでのコンテンポラリーダンスのワークショップで、
講師の方が、
肋骨を意識してみてください。肋骨は中にある内臓をまるで抱きしめているようでしょう。
と言われました。

その言葉をきいて、
ひとは生まれながらにもう抱きしめられているんだ。もう愛されているんだな。
だから、愛してほしいと外に求めなくても大丈夫なんだな。

愛されたいわたしじゃなくて
愛したいわたしの音を 日々奏で続けたらいいんだ。
何年したか、何年するかじゃなくて、今日奏でられた。明日も奏でよう。それだけなんです
と言ってたオルガン奏者の言葉のように・・・

 波うつことの多く、いくつもの道しるべにたすけられて、あるき続ける日々です。

    *    *    *

写真は五条モールのオセロさん。

2015年5月11日月曜日

5月17日天満ナチュラルマーケット そして あとから気がつく、名前のつかないこと

 
5月17日日曜日は天満ナチュラルマーケットにsokuatsu(足圧)参加させていただきます。
1年前の5月に初めてナチュラルマーケットに遊びに行って、
どこかで見てこられたんですか?とスタッフの方に声をかけてもらいました。
それから、自分が参加する側になっているのをそのとき全然知りませんでした。

 5月のイベントです。

15日金曜日 枚方鍵屋別館 bitter     10時から18時
17日日曜日 天満ナチュラルマーケット  11時から17時
23日日曜日 交野green stone       11時から16時
31日日曜日 京都 五条モール レンタルスペース8 12時から19時   

     *     *     *

 友だちという言葉は、長い間使ってよいものかよくわかりませんんでした。
あの人はわたしの友だち とおもっていても、相手はそうおもっていないかもしれないな、
という気持ちが、その言葉を使うことをためらわせました。

 小学生の時、学校の提出物の中に、仲のよい友達を書く欄がありました。
クラスの中で、わたしはYちゃんがとても好きでした。
いつもお母さんのお手製の花模様のワンピースを着て、運動も勉強もできて、字もきれいで、
ピアノをひく、かわいい女の子でした。Yちゃんはいつも近所の幼なじみのUちゃんといましたが、
そのあいまにわたしとも遊んでいました。
わたしは、その欄にYちゃんの名前を書きたいとおもいました。でも、Yちゃんは、Uちゃんの名前を書くに違いないから、やめておこうと、別の子の名前を書きました。あとから、Yちゃんが、
友だちのところにあなたの名前をかいたよ、わたしの名前を書かなかったの?
と言ったとき、いろんな気持ちを言葉にできなくて、
うん、書かなかった、
としか言えなかったのを覚えています。

 エッセイストの山本ふみこさんの友だちのことを書いたものを読んで、ひととひとのつながり
をおもいました。それは、

 友達とふたり、向かい合って静かにものを食べていたとき、ふと、ほんとうにふと、友達というのは、いつの間にかなっているものだというふうに思った。
・・・・
 ただ自然に、誠実に相手の前に立っていればよかった。ひととの関係に名前をつけたりせずに。

                 「おとな時間のつくりかた」 山本ふみこ PHP

という文章でした。友だちという言葉がわたしの中で腑に落ちた瞬間でした。
 
 あるとき、
誰かとつながりたいとおもうのは、だめなのかな?
と言ったら、
それは、あとから、つながっているってわかるもので、つながろうとするのは、ちがうよ。
と言われて、はっとしたことがありました。

そう言ってくれたひとを わたしは、友だちとおもっています。

 


2015年4月21日火曜日

4月23日ニューオーモンのチエリヤさんでsokuatsu(足圧)そしてよく見えない自分と波うつ世界から帰る母を待つこと

4月23日木曜日は京都三条の仁王門通りにある複合ショップニューオーモンのチエリヤさんでsokuatsu(足圧)の日です。元八百屋さんの町屋の二階で11時から18時までです。
お友だちのお灸のよだれちゃんとお待ちしています。

     *     *     *

 二十代の終わりに一緒に住んでいた人とお別れすることになり、十代のころからの友だちに、
「あんな、わたし、別れるねん」
と言ったら、
「えっ、好きな人できたん?」
という返事でした。わたしは、おどろいて、
「えーっ、第一声がそれ・・・ しかもあってる・・・」
と言うと、
「あの彼な、すごいいい人そうやったけどな、あんたの今まで好きになった人みてたやんか。今回今までとちがって(!) たまたまスムーズにいったけど、彼ではあかんやろなあ、思っててん」
ということでした。
友だちにはよく見えていたわたしの姿が、自分では、全然見えていなかったんだ・・・
自分のことは、自分ではわからないって、ほんとうだなあとしみじみ思いました。

いつか、宮沢りえさんが、年下の女優さんに、
「若気の至りは、しとくものよ」
と言ってらして、説得力あるなあと思いました。
わたしの場合はよくわかりませんけれど・・・

 わたしの母はわたしが10歳のころから20年ほど、強いネガティブな妄想につかまると現実世界がよくみえなくなるということが、時々ありました。
 夜中に泣きながら母がわたしを起こしにきたり、
眠れなくて昼間、もうろうとして、わたしが見ていたテレビに向かって、自分の噂をしていないかと心配したり、
見張られているから掃除をしなくちゃいけないといって、部屋に水をまいたり・・・
ということが、予想できない波のようにふいにやってくるのでした。
子どもだったわたしは、その波が来るたびに母と一緒にその不安や恐れに満ちた世界に放り込まれました。でも大人になると、影響をうけつつも、不安でいっぱいの母と距離をおけるようになりました。 
 あるとき母は、自分はダメな人間だから、もう誰にも相手にされないというようなことをふとんに横になって、言いました。わたしは、なんとなく、別に外のひとにお金もらって生きてるわけちゃうし、家族がいてるし、なんとかなるんちゃう?みたいな気楽な返事をしました。
そうしたら母が、ひゅう~と音がするようにゆるんだのが、はっきりと感じられました。
そのときわたしは、ああ、子どものときは、一緒におろおろしていたけど、こんなふうに静かに
接すると、相手も落ち着くんだなあ・・・とおもいました。

 だんだん遠のいていた母の波が久しぶりにきたのは、弟の結婚が決まった時でした。
母は父に見捨てられる、と思い込んでいるようでした。
そのとき、母は息子の結婚という喜ばしいけれど、さみしい出来事をうけいれるために、
他の不安をつくりだしているようにわたしには思えました。
そしてその父に対する母の不安に、まわりがなにか正しいようなことを言わずに、母自身が必要なだけ、その不安に身をおいて帰ってくるのを、ただ待つしかないんだと感じました。

その波がやがてひいて、そのあと、もう波はきませんでした。

子どものときからそんな母の姿をみて大人になったことは、
その渦の中にいるときは、そうは思えませんでしたが、今ではおおきなgiftのようにおもっています。

 
 写真は京都のにぎやかな木屋町通りから細い道の文字通り路地裏にある
Barのような雰囲気のEREPHANT FACTORY COFFEEの壁にうつった影。

2015年4月13日月曜日

4月18日土曜日 green stone さんの sokuatsu(足圧)の日 そして知らない道が教えてくれたこと


 4月18日土曜日は交野(かたの)のgreen stone さんの二階で11時から18時までsokuatsu(足圧)です。住宅街の静かなお店の畳の部屋で、ゆったりした空間です。からだも気持ちもふんわり軽やかになれる時間がながれます。

 雨の日々から晴れた11日土曜日、池田のCafe gallery phtea さんでの初めてのsokuatsu(足圧)もおかげさまで、受けてくださる方が続いて、無事おえることができました。天窓から陽の光がさす空間の奥の縁側で過ごせた楽しい一日でした。

ありがとうございます。

     *     *     *

 高校生になったころ、クラブをやめて、一緒に過ごす友だちもいなくて、毎日放課後や休みの日に、なにをしたらよいかわかりませんでした。

 仕方なく 雨の日以外は、通学用の自転車に乗って、知らない道を(といってもすぐに家に帰ってこられるぐらいの距離)走ることにしました。

ごく普通の家や団地、街路樹やよくある草なんかを見ながら走って、今日はここまでと引き返す
ということを繰り返していました。
あんまりひまではじめたことでしたが、お金もかからず、誰にもなんにも言われず、初めて走る道はわくわくしました。

 ある日舗装していない土手をでこぼこ揺れながら走っていたら、太陽の光がきれいに見えて、
ふいに、この世界、わたしの今いる世界には、まだ知らないこわいことや汚いことや美しいことがあって、人によって見えるものが全然違うけれど、わたしもマイケル・ジャクソンも(!)、ドラマで見るやばそうな人もすごい芸術家も、たったひとつの同じ世界を同時に生きているんだ・・・
と 感じました。
 今でもその時の 少し土ぼこりのする明るい道の、なんでもない風景が残っています。

 また別のある日、そのころ町によくあった小さな本屋さんに入ってみました。そういえば小学生の時は、図書館でよく本を借りて読んだけど、近頃、読んでないなあと棚を見てまわりました。
文庫本なら買えそうでした。でも聞いたことのある作家の本はどれも難しそうで、読めそうにありませんでした。
 中で講談社文庫に読んだことのある佐藤さとるさんのコロボックルのシリーズ、ファンタジーや
児童文学と呼ばれるような本がありました。
これなら、短くて絵もあるし、読めそう・・・と思い買って帰りました。
その本が楽しくて、図書館にまた行くようになりました。

そのうち文章を書くことがしたくなりました。
わたしは、勉強もとくにできず、楽器も歌もだめで、スポーツも苦手で、見た目もなあ・・・
でもなんか、文章書くのは、できるかも。
となぜか思って、高校を卒業して、学生になったとき文芸部というところで文章を書くことをしてみました。これが全然さえなくて、何か形にすることもなくそのまま卒業しました。

でも本を読むことは好きで、ぽつぽつと読み続けました。

10代のすることのないひまでさみしい、なんにも目に見えて積み重ねることのなかった日々。
でもその日々が、自分の好きなことを教えてくれて、今のわたしの毎日を助けてくれています。

そのころはたださみしいなあ、ひまだなあとおもって、過ごしていましたが、
あの時間があって、よかったとおもいます。
そしてそのときはそれが自分にとってよいことだとは、まったくわからなかったな!と
おかしくなります。


 写真はHASEさんの展覧会のもの。
誰かを思って心が充たされる
というすてきなタイトルの作品。

2015年4月6日月曜日

4月11日土曜日Cafe gallery phteahさんでsokuatsuの日 そして珈琲にこめられたもの

今週の土曜日4月11日は、池田のCafe gallery phteah さんで、12:00~18:00 sokuatsu(足圧)の日です。
Punchi Lamai展の期間中に スリランカプロジェクトのためのチャリティ足圧です。
近所に ieさんや、すてきなお店も色々ある場所で、お散歩にぴったりのところです。

     *     *     *

 人と人とのかかわりは、ときにこんがらがったり、きれそうになったり、不器用なわたしは、途方にくれることが、しばしばです。

その日、ちょっとした出来事に気持ちが波うって、どうしたらよいのかわからない気持ちのまま、お店のカウンターに座りました。
珈琲をたのんでから、待つ間、どうしようもなくこみあげてきて、はこばれた珈琲をのみながら、涙を流してしまいました。
店主さんは、静かにティッシュをさしだしてくれて、
大丈夫、元気になれますよ
と 見送ってくださいました。

それから時間がながれて、雨の夕暮れどきに、お店に行くことができました。
そのとき何組かいらしたお客さんは、みな本を読んでらして、わたしも珈琲をたのんでから
本を読んでいました。
お待たせしました、と珈琲をカウンターに置いてくださった手が、とてもやさしくて、
ああ、いつもこんなにやさしい手でコーヒーカップを置いてくださっていたのだな・・・
とおもいました。

帰りぎわに、
この前はあんな風になってしまってすみません。
気持ちの整理に時間がかかって、なかなかお店に来る勇気がでなくて・・・
まだ、すっきりできてないんですけど、決めたことをわたしなりにやってみようとおもっています。
これから、きれてしまったようにおもえる糸を
またあたらしく紡いでいけるのか、きれてしまったままなのか、今のわたしには、わからないのですけれど、きっと、時間がおしえてくれるとおもいます。
といったわたしに、店主さんは、
ええ、いらしたときに、沈んではるのわかっちゃいました・・・
ゆっくり元気になってください。
と、見送ってくださいました。

ああ、わたしを見て、言葉ではなくて、やさしい気持ちをそっと珈琲にこめてくださったんだ。だからいつもにもまして、コーヒーカップを置く手に、じーんとしたんだな・・・
とわかりました。

そして、お店をでて、まばらな人通りの商店街を歩きながら、また涙を流してしまいました。

友だちとは違う、ときおりお店で、つまりお仕事で、顔を見るだけの店主さんですが、
そんなふうに、人と人として接してくださることが、とても幸せに感じた時間でした。

 少し前、離れて暮らしていて中々会えないお友だちが、ハンバーガーのお店のおみくじを見せてくれました。

You'll see.

とあって、
そのうちわかるよ。
みたいなニュアンスでしょうか。

今どうなるのかわからないで、きつかったり、もやもやしていたりすることも
時間の助けをかりて きっとわかるよ。
という、メッセージをもらった気がして、うれしくなりました。

 学生時代からの友だちに
年を重ねるって、失うものや、そこなわれるものがどんどんふえていくような気がして、時々やりきれない気持ちになったりするね・・・
と言ったら、
ぼくなんか、一年中やりきれないから、大丈夫、大丈夫!
と言葉をかえしてくれました。
わたしは、その言葉で、おいおい泣いて、そして、笑ってしまいました。

あたたかいものを たくさんうけとった日々でした。

2015年3月13日金曜日

3月25日水曜日チエリヤさんの癒しの日 そしてあかりをけしたBarと外国のコイン

 
 
 3月25日水曜日に京都三条の仁王門通りにあるニューオーモンという複合ショップの中のチエリヤさんで sokuatsu(足圧)させていただぃます。
 アロママッサージのみわこさんもいらっしゃいます。
 
 ベトナムのバインミーやタイカレー。おばんざいもみんなおいしいすてきなお店です。
 
 ゆったりした町屋の二階でお待ちしています。
 
 
*           *           *
 
 
20代のころ住んでいたまちの隣の西宮の夙川というきれいな街並みを散歩するのが好きでした。
 
ケーキ屋さんや珈琲屋さん、教会、輸入えほんのお店などが並ぶ中に、半地下のすてきなBarがありました。あまりお酒は飲めないけど、友だちを誘って行ってみました。街並みにあったきれいな落ち着いた雰囲気でした。
 
 それから何回か友だちとそのお店に行き、あるときひとりでそのお店に行きました。
 
 ひとりでBarに行くのは、そのころのわたしにはとても思い切ったことに感じられました。
 
 カワンターのはしっこに座っていたら、お店のひとが、
 
「いつも友だちときて、うちBarなのにけっこうお皿ならべて食ってますよね?」
 
と言われて、そうか、こういうBarではあんまり食べないものなんだなあ、今度から気をつけよう・・・と思ったりしました。
 
ぼんやりしたり、ときおりお店の人と話したりしていたら、どんどん時間がたって、終電の時間を過ぎていました。でもまあ隣の市だから、タクシーで・・・と思って、お財布をみたら、お店の支払いで、もう残りわずかな金額でした。
 
うーん、どうするかなあ、と思ってたら
 
お店の人が
「ぼく、お店閉めたら、車だからおくりましょうか?どのあたりですか?」
 
と言ってくださって、今思うと、顔に「タクシー代がない」って書いてあったんでしょう。
 
今日はじめて話したぐらいだし、常連でもないし、
ちょっとびっくりしましたが、とにかく帰れる、と思ってお願いしました。
 
その人が後片付けをしている様子を座って見ていると
Barのあかりをパチンと消したとき、そのころ話題だった田村正和さんがBarをしていて
井上陽水さんの歌が印象的なドラマみたいだなあと思って
「あのドラマのBarみたいですね」と言ったら、
「ああ、そういう人けっこういますよ。ありがちな感想ですよ」
と言われ、そうか、ありがちなんだ・・・と思ったりしました。
 
それから車で少しわたしのつまらない失恋の話なんか聞いてもらって、
「そう、がんばってね。いいこともあるよ」
と言ってもらって、家に帰りつきました。
 
なんだか不思議な夜だったなあと
思ってバックを見たら、さいふがありませんでした。車の中に落としてしまったのでした。
そのとき一番に思ったのは、ああ、からっぽのおさいふを見られてしまう・・・ということでした。
どうしようかなあ、と思っているうちにすぐにその財布は家に郵送されてきました。
それもすごく驚きました。なんで、住所がわかったのか・・・
 
からっぽのおさいふを開けたら、見慣れない外国のコインが入っていました。四葉みたいな模様があるコインでした。
お店の人が、失恋したというからっぽのさいふ持ってる女の子に、幸運をね、っていれてくださったんだなあと、胸がいっぱいになりました。
 
でもどうしてもおさいふが空だったことがはずかしくて、そのお店にいくことができませんでした。
そのうちに、引越して、夙川に行くこともなくなり、Barも違うお店になりました。
 
名前もわからない顔も覚えていないそのお店の人のちょっとクールな声を思い出すと、
はずかしいってことにこだわらずに、ちゃんとお礼を言えばよかったなあ、
と思います。
 
 
なんだか、どこをとってもまぬけな、でも幸せな出来事でした。
 
 
写真はsinduさんの作品、マハラジャに続く光のふりそそぐ道です。
 
 


2015年3月6日金曜日

3月14日 green stone 足圧の日 そしてかきまぜられる頭の中と知りたいほんとうの答え

 
 
 3月14日土曜日は、交野(かたの)のgreen stone さんでsokuatsu(足圧)の日です。

静かな住宅街のおうちの二階で お待ちしています。  

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 少し前に、本棚のある落ち着いたBarで、隣り合わせた方が、子どものころ「いたずらきかんしゃちゅうちゅう」が好きだったと話されました。

 作者はバージニア・リー・バートン 訳はあの「花子とアン」の村岡花子さんです。

 
 同じバートンさんの「ちいさいおうち」
ついこの間みた映画「小さいおうち」の中で、妻夫木聡さん演じる青年が誕生日プレゼントにもらっていました。

その「ちいさいおうち」の訳者石井桃子さん。
「くまのプーさん」「ピーターラビット」「うさこちゃん」等々たくさんの翻訳をされた方です。
その石井桃子さんが、自宅で文庫をされているとき、アメリカからバートンさんがいらしたそうです。

その文庫に集う子どもたちにもバートンさんのえほんはとても人気があり、
なかでも バートンさんのえほんが大好きな女の子が バートンさんに会った様子を描いた石井さんの随筆を読んだ記憶があります。
小学生の女の子と言葉の違うバートンさんの時間を石井桃子さんはじっと見守ったあと、
その女の子に「バートンさんはどうだった?」と聞いたりしなかった。
わたしはそんな質問をすることで、せっかくのその子が体験した時間を持っている頭の中をかきまぜたりしたくなかった。
というようなことを書いてらっしゃいました。

大人は子どもに 「どうだった?」「おいしかった?」「たのしかった?」
とつい聞きたくなります。
そして、子どもが話そうとしている時に、聞かずにいたりします。

ベバリイ・クリアリー作の楽しい読み物「がんばれヘンリーくん」シリーズの中のラモーナという女の子を主人公にした「ラモーナ、明日へ」という作品の中で、小学生になったばかりのラモーナが引っ越してきた新しいクラスメイトのおうちに行ったときに
その女の子のお母さんがラモーナに聞く場面があります。

「まあ、あなた、すてきなくつをはいているのね。・・・デイジーも新しいくつを買わなきゃならないんだけど、このへんのお店がよくわからないものだから。あなたは、どこでくつ買うの?」

それを聞いてラモーナはそのお母さんを好きになります。
なぜでしょうか?
それは、

おとなの人で、ほんとうに答えが知りたくて質問する人はそんなにいません。
デイジーのおかあさんは、「学校おもしろい?」とか、「大きくなったら、何になりたいの?」とか聞く大人とは明らかにちがっていまいた。

と続きます。子どもの気持ちに近い作者だからこそ・・・と印象にのこりました。

わたしもあなたも こどもを含めて誰かに何かを聞くとき、ほんとうの答えがしりたくて
聞いているでしょうか。

人に何かきくということをおもった石井桃子さんとクリアリーさんの文章でした。